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医療従事者のモラル・ディストレスを「規範的な苦しみ」として哲学的に再構成
~倫理的に重要な理由を認識する能力と、行動できない苦しみの関係を捉え直す~
東京理科大学
国立健康危機管理研究機構
研究の要旨とポイント
- モラル・ディストレスを単なる心理的ストレスとしてではなく、倫理的に重要な理由を認識した医療従事者が、外的な制約によってそれに応答できないときに経験する「規範的な苦しみ」として捉え直しました。
- 道徳的感受性が高い医療従事者ほど倫理的問題に気づきやすい一方で、状況によってはモラル・ディストレスを経験しやすくなるという「モラル・ディストレスのパラドックス」を提示しました。
- 本研究成果は、医療従事者への支援、倫理教育の充実、よりよい医療組織づくりに向けた新たな基盤となることが期待されます。
研究の概要
東京理科大学 教養教育研究院 野田キャンパス教養部の伊吹 友秀教授と国立健康危機管理研究機構 臨床研究センター 臨床研究統括部の山本 圭一郎部長の共同研究グループは、モラル・ディストレス(*1)を単なる心理的ストレスとしてではなく、医療従事者が、何が倫理的に重要であるかを認識しながらも、外的な制約によってそれに応答できないときに生じる「規範的な苦しみ」として捉え直しました。
モラル・ディストレスは、看護倫理(*2)や臨床倫理(*3)の分野では重要な概念として広く研究されてきました。しかし、そもそも医療従事者が、目の前の状況において何が倫理的に重要かをどのように認識し、どう行動すべきかについては、十分に検討されてきませんでした。
本研究では、哲学者ジョン・マクダウェルの議論を手がかりとして、モラル・ディストレスの概念を哲学的に再構成しました。また、道徳的感受性が高い医療従事者ほど、倫理的な問題に気づきやすくなる一方で、組織的・制度的制約のもとでは、かえってモラル・ディストレスを経験しやすくなるという「モラル・ディストレスのパラドックス」を提示しました。
本研究は、モラル・ディストレス研究に新たな哲学的・認識論的基盤を提示するとともに、医療従事者へのストレス支援のあり方や倫理教育の充実、さらには医療組織における制度設計や意思決定、職場環境の改善の重要性を示唆しています。
本研究成果は、2026年7月9日に国際学術誌「Nursing Ethics」にオンライン掲載されました。
研究の背景
1984年にアメリカの哲学者アンドリュー・ジェイムトンがモラル・ディストレスの概念を提唱して以来、看護倫理や臨床倫理の分野では、モラル・ディストレスの原因、発生頻度、影響に関する多くの研究が行われてきました。古典的な定義である「倫理的に何が正しい行為であるかはわかっているにもかかわらず、制度的な制約によってそれを実行できないときに生じる心理的苦痛」は、現在でも看護倫理・臨床倫理研究における中心的な概念となっています。
これまで、モラル・ディストレスを理解するために、主に3つの理論モデル(①制約モデル(The constraint model)、②道徳的心残りモデル(The moral residue model)、③道徳的行為者モデル(The moral agency model))が発展してきました。しかし、これらのモデルはいずれも医療従事者が「正しい行動を知っていること」や「道徳的感受性を持っていること」を前提としており、そもそも医療従事者が、状況の中にある倫理的に重要な特徴をどのように認識し、何をすべきかを判断するのかについては、十分に検討されていませんでした。こうした問いに答えるためには、道徳的知覚の認識論的基盤を明らかにする必要があります。
この課題に取り組むために、本研究グループは哲学者ジョン・マクダウェルの理論を手がかりとしました。マクダウェルによれば、人は目の前の状況を見たときに、それが倫理的に重要な場面かどうかを直接見て取る(知覚)ことができますが、この能力は生得的に完成しているものではなく、教育と実践を通じて形づくられるもの(第二の自然)です。人はこうした教育や経験の過程を経る(陶冶)ことで、状況の中にある意味を理解し、それを行動すべき理由として捉える感受性を獲得します。「理由の空間」とは、知覚や判断を、何をすべきかをめぐる理由に照らして理解し、正当化できる規範的な領域を指します。つまり、道徳的判断は抽象的な規則を機械的に適用することではなく、教育や実践を通して培われた道徳的感受性によって、状況の中にある倫理的理由を見いだす営みとして理解されます。
本研究では、こうした一連の概念を用いて、医療従事者が倫理的に重要な理由をどのように知覚し、それに基づいて行動するのかを理論的に検討しました。
研究結果の詳細
本研究では、マクダウェルが提唱した「知覚」「第二の自然」「理由の空間」「陶冶」という枠組みを医療実践に応用し、医療従事者の道徳的感受性を、状況の中にある倫理的に重要な事柄を見いだし、行動すべき理由として理解する能力と位置づけました。これは規則を機械的に適用する能力ではなく、専門教育や臨床経験を通じて培われる能力です。
その上で、モラル・ディストレスを、単に「正しいとわかっている行動ができない心理的苦痛」としてではなく、道徳的感受性を備えた医療従事者が倫理的に重要な理由を認識しながらも、組織的・制度的な制約によってそれに応答できないときに経験する「規範的な苦しみ」として捉え直しました。これにより、モラル・ディストレスは個人の心理状態にとどまらず、医療現場の制度や組織のあり方とも深く関わる問題として理解することができます。
さらに、道徳的感受性が高い医療従事者ほど、患者や医療現場における倫理的に重要な側面に気づきやすい一方で、権限や人員、時間などの制約によって適切に対応できない場合には、モラル・ディストレスを経験しやすくなる可能性があることを示唆しました。本研究では、この一見矛盾する関係を「モラル・ディストレスのパラドックス」と呼び、道徳的感受性の高さが、組織的・制度的制約のもとでは苦しみの生じやすさにもつながりうるという理論的可能性を提示しました。
本研究により、モラル・ディストレスは、医療者教育における道徳的感受性の育成、医療組織における倫理的な意思決定、職場環境の改善を検討する上で重要な示唆を持つ問題として位置づけ直すことができます。患者や家族と密接に関わる看護職を含む医療専門職において、このパラドックスがどのように生じるかは、今後、実証的に検討すべき課題であり、本研究成果はその背景にある構造を説明する理論的基盤となることが期待されます。
著者の一人である東京理科大学の伊吹教授は、「本研究の知見は、医療従事者のモラル・ディストレスを個人のストレス対処だけの問題として扱うのではなく、倫理教育、職場環境、組織的意思決定、医療制度の在り方を含めて検討する必要性を示しています。将来的には、医療従事者が倫理的な懸念を表明しやすい職場づくりや、患者にとってよりよいケアを実現するための教育・組織改善に活用されることが期待されます」と、コメントしています。
※ 本研究は、日本学術振興会(JSPS)の科研費(基盤研究(A)、23H00005)の助成を受けて実施したものです。
用語
*1 モラル・ディストレス
一般に、倫理的に適切だと判断する行動があるにもかかわらず、組織的・制度的な制約などによってそれを実行できないときに生じる苦しみを指す。本研究では、これを単なる心理的苦痛ではなく、倫理的に重要な理由を認識しながら、それに応答できないときに経験する「規範的な苦しみ」として捉え直した。
*2 看護倫理
看護職が患者の立場や尊厳・権利を守り、誠実かつ適切なケアを提供するために遵守すべき規範や行動指針。
*3 臨床倫理
医療現場において、医療従事者、患者、家族が「患者にとって最善の選択は何か」を判断するための取り組み。患者の治療方針の決定や、限られた医療資源の配分など、医療従事者が直面する個別の事例に即して、何が倫理的に望ましい選択かを検討する。
論文情報
雑誌名
Nursing Ethics
論文タイトル
A philosophical reconstruction of moral distress: Its paradox and significance in healthcare practice
著者
Keiichiro Yamamoto and Tomohide Ibuki
DOI
発表者
- 伊吹 友秀
- 東京理科大学 教養教育研究院 野田キャンパス教養部 教授
- 山本 圭一郎
- 国立健康危機管理研究機構 臨床研究センター 臨床研究統括部 部長
