人文社会分野の担当教員がおすすめする本
- よみがえる大王墓・今城塚古墳(シリーズ「遺跡を学ぶ」77)教員のコメント
日本語日本文学の研究では、作者あるいは編者による自筆本や書簡・日記など、文献を基礎資料とします。ただし、研究に取り組む上では、国内外の考古学や建築学、文化財科学といった隣接諸科学を含め、多岐にわたる学問分野の研究成果を学び、当時の人々が置かれていた諸環境や、後代における受容と変容を理解することも大切です。例えば、『古事記』を編纂した太安万侶は、1979(昭和54)年に、木櫃(中には骨・灰・真珠)と墓誌が発見されるまで、非実在説が唱えられたこともありました。また、副葬された墓誌には、3次元形状計測に基づくCG画像の科学的分析などによって、銘文と同筆となる毛筆の痕跡が残されていることも判明しています。
本書は、第二十六代・継体天皇の真陵とみられる、今城塚古墳の研究成果を詳説しています(宮内庁は、太田茶臼山古墳を「三嶋藍野陵」として治定)。本書を通じて、同古墳には、熊本産馬門石(阿蘇ピンク石)など、全て産出場所の異なる三基の石棺が存在したことや、二百体以上の埴輪による祭祀場のほか、盗掘や大地震のもたらした甚大な被害、用水路・農業用地確保のための掘削や埋め立てなど、後世における墳丘破壊の様相をも知ることができます。古墳に眠る王の権勢を実感するとともに、日本語日本文学研究に携わる者として、文献に記された継体天皇の事績と共鳴し合う点を、少しでも解き明かしたいという思いに駆られます。
なお、「シリーズ「遺跡を学ぶ」」では、近世の加賀藩江戸屋敷や、近代の新橋停車場なども取り上げています。別冊を含む全104冊を、オールカラーで楽しめますので、まずは書名を眺めつつ、気になる遺跡を探してみましょう。 - 折口信夫の晩年教員のコメント
岡野弘彦先生(歌人・国文学者)は、学部時代からの師です。本書は、折口信夫(釈迢空)先生が、今際の時まで、研究・創作・教育に情熱を傾けていたすがたを描く評伝であり、かつ学徒出陣を経て復員し、大学生に戻り、その卒業後も、折口先生の内弟子として過ごした岡野先生ご自身の若き日を語る青春記でもあります。
青年期に大阪・今宮中学校(旧制)教員の職に就くも、まもなく辞して再上京し、やがて二校の大学教授職を兼務し続けた折口先生には、多くの門弟・教え子がいました。本書では、彼らに対して、学問・創作方法の伝授にとどまらず、その生活や人生までも案じ、慈愛を以て接していた折口先生の素顔を知ることができます。内弟子ながら大学講師も務めていた岡野先生の帰郷時に、折口先生が進んで代講をなさったこと、翻って自らの代講は弟子に決してさせなかったとの事実に、教育者としてあるべき姿勢を問いかけられるかの思いを抱きます。今宮中学校時代の関係では、少年期の萩原雄祐氏(天文学者)や伊原宇三郎氏(画家)など、折口先生を慕って東行し、下宿を共にした複数の教え子の生計もみました。大学教員の職を得た後も、大晦日の晩に、卒業論文が提出できず自宅に押しかけて泣く学生を宥めることや、就職の世話はもとより、結婚を祝し、生まれた子の名づけ親となり、さらには失恋や破婚に至った者を慰めることすらあったようです。折口先生のやわらかな愛情は、亡くなった教え子を悼む多くの挽歌にも表れています。
一方、内弟子(後に養子)であった春洋氏(歌人・大学教授、硫黄島にて戦死)が出征前に準備した炭俵二俵により、配給の乏しい戦後にも折口先生の暖を取ることがかなったとの逸話や、岡野先生の日常である口述筆記や校正、食事の準備、体調不良時の療治、そして惻々と胸を打つ逝去前後の記述には、内弟子のみが達し得る、確かな欽慕の念があります。本書は、師弟間の比類なき深さにある相思を伝える不朽の名著として、日本の大学史にも刻まれています。
紹介文を執筆しつつ、各母校で出会った先生方―早逝された本学出身の先生も―を回顧しました。岡野先生にも、他の先生方にも、全く報恩し得ぬ立場ですが、皆さんにも、本学に関わる先生との素晴らしい出会いがありますよう、心から願っています。
結びに、岡野先生の短歌作品のうち、好きな一首をご紹介します。
人はみな悲しみの器。頭を垂りて心ただよふ夜の電車に - 教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化教員のコメント
“読書と自己陶冶とを結びつけて「教養」を位置づける「教養主義」は、大正期の旧制高校で学生文化として沸き起こり、時代によってその内容を変えながらも、1970年前後まで学生たちの心を捉え続けた。その後、高度経済成長による社会変化や、学生運動後の大学の大衆化を受け、「教養主義」は急激に衰退して今に至っている。
一方で、近年は、社会においても大学教育においても、「教養」の重要性が(再び?三たび?)叫ばれるようにもなってきている。いまなぜ「教養」は重要だと言われるのだろうか。そもそも、「教養主義」における「教養」と、いま語られている「教養」とは、何が同じで何が異なっているのだろうか。
自分自身の「教養」観を相対化し、いまの「教養」と向き合う前提として、本書で「教養主義」を中心とする「教養」の来歴を学んでおきたい。” - 九月、東京の路上で―1923年関東大震災 ジェノサイドの残響教員のコメント
今年、2023年の100年前、1923年に関東大震災がありました。このとき、東京や横浜を中心として関東の路上で、警察や軍隊そして多くの一般の日本人が朝鮮人・中国人を大量に虐殺する事件がありました。この本は、様々な殺戮現場を当時の記録と証言とともに辿った本です。約10年前の本ですが、今あらためて紹介したいと思います。
「たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹やりで突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました」
当時の東京物理学校、今の東京理科大学の学生だった李性求さんのエピソードもあります。
「9月2日の朝、下宿先(長崎村。現在の豊島区千川、高松、千早、長崎町あたり)を出ると、近所の人から「李くん、井戸に薬を入れるとか火をつけるとか言って、朝鮮人をみな殺しにしているから行くな」と止められた。「そんな人なら殺されても仕方がない。私はそんなことしないから」と言って忠告を聞かなかったのがまちがいだった。」 - ウクライナ民話『てぶくろ』教員のコメント
子どもたちに読み聞かせをしていた頃、違和感ある「おしまい」だと思った。が、すっかり忘れていた。『てぶくろ』はロングセラー絵本。多くの保育園の本棚に並んでいる。絵本では『ぐりとぐら』のように楽しく「おしまい、おしまい」が多いが、時には『さるかに合戦』のように気持ちがザワザワするおしまいもある。でも、そのどちらにも「違和感」はない。
2022年2月24日の侵攻開始からどれくらい後だろう。当時の違和感と共にこの本を再発見した。読み直すと、この絵本の「おしまい」は異国の昔語(むかしがたり)のそれなのだと強く感じる。日本のお話なら手袋は動物たちの家になっただろう。イソップ(ギリシャ)なら喧嘩で手袋は引きちぎれて誰のものにもならなかったかもしれない。でもウクライナ(あるいは「スラブ民族」?)はそのどちらでもない。どう思うだろう?。熊は誰で、お爺さんは誰なのか。なぜここで・これで「おしまい」なのか。 - 黄金比教員のコメント
「自然という書物は数学の言葉で書かれている」と言われると「人はパンのみで生きるにあらず」と返したくなるが、とはいえ「比(ratio)」は神の創造の証であった。中でも、記号φ(ファイ=パルテノン神殿他、古代随一の彫刻家フィディアスPheidiasの頭文字)で現される黄金比は神秘である。黄金比が現れるのは「美しい彫刻」に限らない。五芒星形、イマゴー・デイ(神の似姿)、和声(ハーモニー)、黄金多面体、フィボナッチ数列やリュカ数列。かのプラトンの「線分の比喩」は果たして、「万物は数である」とするピュタゴラス派の秘蹟を語るものだったのか。古来、大学の教養に「音楽」が含まれた理由も、音階や和声を形作る比(ratio)が人の魂の中心たる理性(ratio)を整えると考えられたからだ。となれば、必修となっている道具的数学はほどほどに、宇宙の神秘φの話は如何だろうか。「数」と神秘とが切り離せないコスモスに我々は生きている。
- 幽霊塔教員のコメント
読むよりもまず手に入れることをおすすめする。本はコレクションの対象であり、工芸品である。
小説であれば当たり前だが内容の面白さが求められる。しかし、だからと言って文字が並んでいれば(だから嵩張(かさば)らない電子書籍で)十分というのは本の楽しみの半分を失っている。図書館や書斎が独特の空間であるのは、装丁の美しい本がある秩序をもって並んでいるからだ。だから図書館にも「二流」がある。図書館が立派であるのは、「知」が「美」と共にそこにあるからだ。この本は宮崎駿によるカバーや口絵(ほぼ短編の漫画だ)がついた美しい本の一つ。その背表紙を書架に並べたい。そしてその本が、その中身が、かの『ルパン三世 カリオストロの城』の(ルブラン作品以外の)着想の一つだとすれば、これは本を開き、読むしかないのである。繰り返すが、他の『幽霊塔』ではない。この「版」で楽しむことが大事なのである。 - 差別の哲学入門教員のコメント
もし人々を区別し、その扱いを変えることを「差別」ととらえるならば、男性を昇進させて女性をさせないこと、電車でお年寄りには席を譲って若者には譲らないこと、障害のある受験生とない受験生とで受験時間を変えること、などが含まれます。ですが、これらのすべてを「差別」とは言わないことからもわかるように、「差別」とは何かは通常考えられているほど自明ではありません。本書は、「差別とはどういうものか」をはじめ、「差別はなぜ悪いのか」「差別はなぜなくならないのか」という3つの難解な問いに、2人の哲学者が迂回しつつも着実なルートで迫るものです。差別について考えるときに私たちが前提にしてしまっていることそれ自体を問い直す筆者たちの思考のプロセスは、「哲学的に考える」ことの醍醐味を教えてくれます。
- 10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」教員のコメント
「そんな言い方じゃ聞き入れてもらえないよ」「悪気はないんだから許してあげなよ」などなど、日常生活の中での何気ない言葉にモヤモヤしながらも、うまく反論できなかった経験は誰にでもあるのではないでしょうか。本書は、差別について研究する社会学者が、こうした「ずるい言葉」の中に隠れた思い込みや責任逃れ、偏見をあぶり出し、それらに言いくるめられないための手がかりを伝授するものです。「ずるい言葉」に傷つけられたり縛られたりせずに充実した大学生活を送るためにも、間違いを間違いとして見抜く知恵をぜひ身につけてください。応用編として、同じ著者による『10代から知っておきたい 女性を閉じこめる「ずるい言葉」』(WAVE出版、2023年)もおすすめです。
- 差別はたいてい悪意のない人がする:見えない排除に気づくための10章教員のコメント
さまざまな社会的マイノリティを侮辱する言葉や行動は依然としてなくなっていません。にもかかわらず、差別は過去の問題であり、現在では解決済みであると考えている人は決して少なくないのが現在の社会です。この本は、私たちが差別を差別として認識できないのはなぜなのか、差別はどのように不可視化され正当化されるのかについて、筆者自身がそうであったという反省からスタートして考えていくものです。「平凡に見える特権」「傾いた公正性」「嫌いと言える権力」など、差別を個人の悪意に回収することなく、社会のつくられ方や仕組みとの関係において理解し、それを自分事として考えていくための視点がびっしり詰まった一冊です。
- 東京オリンピックと、繋がれない寂しさとAKIRA 1〜6巻教員のコメント
「未来の東京オリンピック」と聞いて多くが思い出すのがこれ。掛け値なしのSF漫画の金字塔。オリンピックに合わせた展覧会『MANGA都市TOKYO』(2020年:2018年にパリで同様の展覧会が開催)でももちろん主役のひとつだった。
僕らは人よりもちょっとだけ秀でた力が欲しい。その力があれば認められてみんなの中で自分の場所が得られるかもしれない。もっと力があったらみんなの中心にいられるかもしれない。そしてレースではトップに立ちたい。それこそが中心にいる一番の方法。勉強も、運動も、良い大学に入るのも良い会社に就職するのも、「中心」から外れないためじゃないのか。
もうすぐオリンピックが予定されているのに、人々はバラバラで中心に穴が空いた東京。さて、僕らは結局何を望むのか。何を中心に置くのか。その中心とどう距離をとり、そして繋がっていくのか。鉄雄の切ない渇望と共にAKIRAをめぐる冒険の世界に今こそハマりたい。 - それが本棚にあるだけで風景が違ってくる本クレーの絵本教員のコメント
世界最古の漫画は『鳥獣戯画』ではないかという(怪しい?)説もあるが、我々は絵と言葉を一緒に心に留めつつ物語る技法を時代とともに磨いてきた。親やセンセイの読み聞かせで食い入るように見つめた数々の絵本が個性の古層に眠る経験であるなら、絵画と詩による大人の絵本で新しい層を重ねるのはどうだろうか。
おうちで寝転んで眺めるだけで良いのだ。詩は「読む」のではなく、気に入ったところを口ずさむものだ。時に鮮やかな、時にどんよりした、あるいは淡い、あるいは明るい、そしてしばしば不安なパウル・クレーの色遣いを愛でつつ、谷川俊太郎独特の言葉のリズムで心を揺らしてみたくなる。現代詩の言葉の連なりのハルモニアを自らの耳にささやいてみないか。
「金色の魚」の表紙がテーブルの上に無造作に置いてあるだけで、マスクなしの散歩を待ち望む灰色の部屋が明るくなるだろう。そして静かに扉を開くと、まずは静かに微笑む「忘れっぽい天使」(Klee, 1939)がそこにいる。 - 何度でもやり直せるなら、と切実に思う今日この頃ターン教員のコメント
『Re:ゼロから始める異世界生活』(2012~)『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)、トム・クルーズ主演の『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014)などなど、今やタイムリープ(注:繰り返しのないタイムスリップとは区別)はSFの常道だけれど、そのアイデアは最近のものだ。北村薫は『スキップ』『ターン』『リセット』の3部作で、それぞれ、「未来を生きる」「繰り返し生きる」「過去をやり直す」物語を紡いでみせた。『ターン』はその真ん中。著者自身も認めているが、一足早くケン・グリムウッドの『リプレイ』(1986:翻訳1990、新潮社)が出てしまったので、残念ながら日本一だが世界で一番ではない。
アイデアの原点に遡るのはある種の「概念史」として、そのアイデアに横たわり絡まりまつわる問題を見渡すのに有効だ。ゲームの世界では倒れても途中から再開しやり直しができるその仕組みそのものがある種のタイムリープだが、実に羨ましい。こんなコロナな状況の今、できればタイムリープしてみたい、と思わずにはいられない。そこで、その願望の先にどんな世界があるのかを物語の世界で楽しもう。『リプレイ』(新潮文庫)も併せて読めばもはや君はタイムリープの達人。記憶の保持による「解決策」の試行や実施といった利点だけでなく、起こりうる「問題点」も含めて、その道の知識人。アニメやラノベでチャチな設定を見たら「やり直せ!」と突っ込みを入れるのも思いのままだ。 - コロナで梅雨。数学の窓から世界をのぞいてみたい。虚数の情緒 中学生からの全方位独学法教員のコメント
部屋の中でぼんやりケータイをいじってもなんだか面白くない。何か新しいことを始めたい。でも、いきなりの冒険は難しい。だったら料理を始めるか、鉢植えを愛でるか、ダイエットビデオを観るか。いやいや、あえて分厚い本にチャレンジして自慢するのはどうだろう。読書に自信があるのなら『カラマーゾフの兄弟』だろうが、ここは『虚数の情緒』。数学から広がる世界を眺めてみよう。
これは教科書や参考書とは全く違う、読み物としての数学。どうして数学が嫌いになるのかなどの教育論から始まって、歴や数字の歴史、地理や物理、ピタゴラスやパスカル、美の話からアルキメデス、誕生日と確率の話、野球の送りバントの話まで出てくる。さらに、二次方程式を扱っていたと思ったら話が進むとマクスウェル方程式、相対性理論から量子脳の話題まで、縦に横にとバラバラだった世界が順番に繋がっていく。うんちく満載。まさに「全方位」。受験や試験のための数学とは違う、教養としての数学がここにある。
「指数関数って結局何をやっているんだろう?」と、ぼんやり思っていた高校時代の疑問が、「ああ、まあ、こういうことか」と、一種の数学辞典の趣も感じる。
タイトルにもなっている「虚数」。それはこの世には実在しない。実在しないものを扱い、実在しないものを使って実在を考えることもできる数学は、まさに科学の言語なのだ。本書を読むと「世界は数学の言葉でできている」(ガリレオ)かも、と信じたくなってくる。 - ショーン・コネリー主演の映画DVDで観て!薔薇の名前教員のコメント
修道院で起きる謎の死。その謎を解くために活躍する主人公。筋はmysteryの王道なのだが、その仕掛けが秀逸。
記号論理学者エーコーが選んだ主人公ウィリアム(映画でのショーン・コネリーがカッコイイ!)は、「オッカムの剃刀(カミソリ)」(「説明に不要な存在者(概念)は切り捨てるべし」)で有名な論理学者オッカムの友人(ついでにロジャー・ベーコンの弟子)。そう、推理とは論理を正しく使う姿。仮説とその検証の積み重ねが真実へと至る道だ。オッカム的論理・実証と対照的なキリスト教2大会派の衝突。修道院の「自然に反する」歪な共同体。キリスト教思想史へのオマージュと強烈な皮肉。そしてそのオチときたら、アリストテリアン拍手喝采。形而上のmystery(神の啓示)を待ち望む人たちの、mystery(秘教)をめぐる、徹頭徹尾形而下の人間的出来事がそこにある。
読書が苦手ならまずはDVDで。これは原作でゆっくりたっぷり味わいたくなる仕掛けたっぷりのmystery(推理小説)だ。
ともかく、この小説の仕掛けはここに並べきれない。エーコーの仕掛けを楽しく読み解くのに、いずれゼミや企画授業で題材にして、歴史や宗教、文学や思想史などさまざまな専門家を呼んで教えを乞い、そこに散りばめられた「記号」を楽しみたい作品でもある。
*手元に実物がなかったので、DVDのパッケージの写真を掲載します - 身近な社会問題も「科学」的に解決しよう貧乏人の経済学 / Poor Economics教員のコメント
貧困を削減したいという想いは世界の多くの人々が共有するところであろう。しかし、現状の開発援助政策が効率的に貧困削減を推し進めているかについては懐疑的な見方も多い。どうしたら効率的な政策を立案できるか。そこで本書が提唱するのが、実験やデータサイエンスといった「科学」的検証に基づいた政策立案である。
2019年ノーベル経済学賞を受賞した両博士が執筆した本書は、開発援助政策の立案における「科学」的手法の有用性について、具体例を交え論じた大著である。本書を読んだ皆さんは、本学で学ぶ自然「科学」の手法が、実は、社会問題の解決においても有用であることにお気づきになるに違いない。身近な問題の解決にも「科学」を用いて、より良い将来を構築してはいかがだろうか。※この書籍は、本学図書館に電子ブックとして所蔵しています。
ぜひオンラインでも読書を楽しんでください。
https://kinoden.kinokuniya.co.jp/tus_library/bookdetail/p/KP00000236 - 科学は政治的空白で活動するわけではない科学の女性差別とたたかう――脳科学から人類の進化史まで教員のコメント
「科学」は、個々人の価値観や文化、政治などの影響を受けない客観的なものだというイメージがあります。もちろんそういう分野もあるでしょう。
しかし、特に人間や動物、生物を扱うような領域では、それは正しくはありません。科学者も人間であり、性別や人種などについて社会で共有されている価値観や文化から自由ではないからです。というより、人は、かなり積極的に知識を得て距離を取ろうとしない限り、既存の支配的な考え方やモノの見方に無自覚に染まっていると考える方が正しいでしょう。
本書は、主に医学や脳科学そして生物学などを対象にして、男女の役割分担に関する科学者――主に男性科学者――のバイアスを、当事者へのインタビューも含めて明らかにしています。著者が引用する次の言葉が、本書全体を表しています。「最も頭脳明晰な男性ですら、女性について話しだすと鈍感になることに私は気付いた。ジェンダーの話題には、その他の面では見識のある知性をも鈍らせる何かがある」どのように鈍らされているのでしょうか。「男らしさ」や「女らしさ」についての既存の考え方、文化的・社会的な固定観念と先入観をそのままなぞり、強化する方向で観察・分析・考察が歪められるということです。本書には「共感する女脳とシステム化する男脳」などを含めて、どこかで聞いたことがあるような話が必ず一つは含まれています。
同じ著者の翻訳に『科学の人種差別とたたかう』という本もありますが、それも含めて、本書は科学と社会の関係を具体的かつ重要な事例に即して考えるための入り口として必読です。 - 気軽に読み始めて、泣き、笑う。海をあげる教員のコメント
私は上間陽子の文章が好きだ。彼女は中島みゆき、谷川俊太郎ではない。むしろ、対極的かもしれない。この本の冒頭にあるエッセイ「美味しいごはん」は、私の様々な感覚を覚醒させる。想定外だったが、このエッセイを初めて読んだとき、私はある箇所で泣き、別の箇所では笑ってしまった。また、要所で登場する「ごはん」に、勝手に姿と色と味をつけて、私は一緒に食事をした。韓国では人が出会うと、「ごはん食べましたか?」と聞く習慣があるが、「美味しいごはん」の世界と通じていると思う。それは相手を思いやる挨拶なのだ。今だからこそ、自分の愛する人たち、友人たちに大きな声で言いたいね。「一緒にごはん食べよう」。
- 静けさのうちでしか聞くことのできない声(詩)を読む中島みゆき全歌集(『中島みゆき全歌集1975-1986』として復刊)教員のコメント
私の手元にあるのは、1990年刊行の『中島みゆき全歌集』(長らく入手困難だったらしいが、2015年に復刊した)。反則的かもしれないが、序文にあたる「詞を書かせるもの」を読んだ後、詩人・谷川俊太郎の中島みゆき解剖学(解説)を読んでほしい。私がキャッチフレーズにした言葉は、その谷川の解説文から引用した。私にとって、この二人は1980年代からの先生。先生のことばを読み、静けさに導かれてほしい。そして時間があれば、歌を音楽で、中島みゆきの声で聞いてみるといい。