- よみがえる大王墓・今城塚古墳(シリーズ「遺跡を学ぶ」77)新泉社2011
日本語日本文学の研究では、作者あるいは編者による自筆本や書簡・日記など、文献を基礎資料とします。ただし、研究に取り組む上では、国内外の考古学や建築学、文化財科学といった隣接諸科学を含め、多岐にわたる学問分野の研究成果を学び、当時の人々が置かれていた諸環境や、後代における受容と変容を理解することも大切です。例えば、『古事記』を編纂した太安万侶は、1979(昭和54)年に、木櫃(中には骨・灰・真珠)と墓誌が発見されるまで、非実在説が唱えられたこともありました。また、副葬された墓誌には、3次元形状計測に基づくCG画像の科学的分析などによって、銘文と同筆となる毛筆の痕跡が残されていることも判明しています。
本書は、第二十六代・継体天皇の真陵とみられる、今城塚古墳の研究成果を詳説しています(宮内庁は、太田茶臼山古墳を「三嶋藍野陵」として治定)。本書を通じて、同古墳には、熊本産馬門石(阿蘇ピンク石)など、全て産出場所の異なる三基の石棺が存在したことや、二百体以上の埴輪による祭祀場のほか、盗掘や大地震のもたらした甚大な被害、用水路・農業用地確保のための掘削や埋め立てなど、後世における墳丘破壊の様相をも知ることができます。古墳に眠る王の権勢を実感するとともに、日本語日本文学研究に携わる者として、文献に記された継体天皇の事績と共鳴し合う点を、少しでも解き明かしたいという思いに駆られます。
なお、「シリーズ「遺跡を学ぶ」」では、近世の加賀藩江戸屋敷や、近代の新橋停車場なども取り上げています。別冊を含む全104冊を、オールカラーで楽しめますので、まずは書名を眺めつつ、気になる遺跡を探してみましょう。 - 折口信夫の晩年慶應義塾大学出版会2017
岡野弘彦先生(歌人・国文学者)は、学部時代からの師です。本書は、折口信夫(釈迢空)先生が、今際の時まで、研究・創作・教育に情熱を傾けていたすがたを描く評伝であり、かつ学徒出陣を経て復員し、大学生に戻り、その卒業後も、折口先生の内弟子として過ごした岡野先生ご自身の若き日を語る青春記でもあります。
青年期に大阪・今宮中学校(旧制)教員の職に就くも、まもなく辞して再上京し、やがて二校の大学教授職を兼務し続けた折口先生には、多くの門弟・教え子がいました。本書では、彼らに対して、学問・創作方法の伝授にとどまらず、その生活や人生までも案じ、慈愛を以て接していた折口先生の素顔を知ることができます。内弟子ながら大学講師も務めていた岡野先生の帰郷時に、折口先生が進んで代講をなさったこと、翻って自らの代講は弟子に決してさせなかったとの事実に、教育者としてあるべき姿勢を問いかけられるかの思いを抱きます。今宮中学校時代の関係では、少年期の萩原雄祐氏(天文学者)や伊原宇三郎氏(画家)など、折口先生を慕って東行し、下宿を共にした複数の教え子の生計もみました。大学教員の職を得た後も、大晦日の晩に、卒業論文が提出できず自宅に押しかけて泣く学生を宥めることや、就職の世話はもとより、結婚を祝し、生まれた子の名づけ親となり、さらには失恋や破婚に至った者を慰めることすらあったようです。折口先生のやわらかな愛情は、亡くなった教え子を悼む多くの挽歌にも表れています。
一方、内弟子(後に養子)であった春洋氏(歌人・大学教授、硫黄島にて戦死)が出征前に準備した炭俵二俵により、配給の乏しい戦後にも折口先生の暖を取ることがかなったとの逸話や、岡野先生の日常である口述筆記や校正、食事の準備、体調不良時の療治、そして惻々と胸を打つ逝去前後の記述には、内弟子のみが達し得る、確かな欽慕の念があります。本書は、師弟間の比類なき深さにある相思を伝える不朽の名著として、日本の大学史にも刻まれています。
紹介文を執筆しつつ、各母校で出会った先生方―早逝された本学出身の先生も―を回顧しました。岡野先生にも、他の先生方にも、全く報恩し得ぬ立場ですが、皆さんにも、本学に関わる先生との素晴らしい出会いがありますよう、心から願っています。
結びに、岡野先生の短歌作品のうち、好きな一首をご紹介します。
人はみな悲しみの器。頭を垂りて心ただよふ夜の電車に