こんにちは。学生スタッフのA.S.です。10/1~12/12の間、近代科学資料館で「工学者を育成し、京都の近代化と地域振興に寄与した『京都の3人』難波正・三輪桓一郎・玉名程三」が行われています。それに伴って11/8に東京理科大学教養教育研究院の神野教授による講演が行われました。三輪桓一郎先生に関係するということで私も聴講しました。
講演は1時間ほど行われ、三輪先生の経歴に沿って澤柳事件までの要所要所について明らかになった事実や見解を聞くことができました。三輪先生は卒業後、帝国大学理科大学助教授をしていたのですが、5年後に学習院教授になっています。この理由の一つに当時の帝国大学理科大学で教授になるためには留学経験が必須だったことが挙げられるそうです。三輪先生は留学経験がなく、キャリアを維持するために学習院大学に変わったと考えられるそうです。そして卒業から25年後の1903年のフランス・ドイツ留学が最初の留学でした。この留学中に1904年の第三回万国数学者会議へ日本代表として出席しています。神野教授によると「会場に近かったから選ばれた」とも考えられるそうで、当時はこういったことはよくあったそうです。もしそうだとしたら、三輪先生は日本代表になるための十分な実力と強い運を備えていたということでしょう。そして澤柳事件が起きるのですが、意外なことに当時のこういった淘汰は珍しくなかったそうです。
今回の講演で、神野教授が「法学者は自分のことを残すことが多く、調査がしやすいが、数学者は自分のことを書き残さないので調査が大変だった」と話していて、とても共感しました。ただ三輪先生は東京数学物理学会や羅馬字会など、幅広く教育関係の活動に熱心だったそうで、活動の流れを知ることはできたそうです。私は幅広く活動されていたことを知らなかったので大変驚きました。実力と運と、そして多くの人と関わることが三輪先生を昇華させたのかもしれません。