こんにちは。学生スタッフのA.S.です。9/26~12/14の間、近代科学資料館で「『富士山観測』~日本気象学の礎を築いた中村精男と和田雄治~」が行われています。それに伴い、10/27には大島商船高等専門学校の牛見教授による講演会が行われ、私も聴講しました。中村精男に焦点を当てた内容となっていて、約20名が参加されました。
牛見教授の講演は「近代気象学の先駆者・中村精男(上/下) ―吉田松陰と松下村塾の影響を踏まえて―」*1という教授ご本人がまとめた論文に基づいて、1時間ほど行われました。この論文はインターネットで閲覧することができますので、是非下記のURLからご覧ください。中村精男はその生涯に、幼少期に通っていた松下村塾から大きな影響を受けていたそうです。その内の一つである理念について、「国家の恩を受けて学を修めることができたので、恩返しをするべきだ」というもので、物理学校校長時代には教育勅語を流暢に奉読できるほどだったそうです。また中村精男は70代まで教鞭をとり続けており、この理念は生涯一貫していたと考えられます。学問について、中村精男は気象学を志すこととなった原点も松下村塾にあり、松下村塾を作った吉田松陰は海事(航海に必要な技術や知識全般)が重要だということをよく説いていたそうです。海事と気象学は密接にかかわっており、中村精男は気象学の道に進み、中央気象台長を務めるまでに至ったそうです。気象学の話が出てきますと、私が調べてきた和田雄治の名前も見かけるようになりました。調べていた時の印象とは異なって、想像以上に中村精男と和田雄治は親しかったことが伺えました。
今回の講演のキーワードの一つである吉田松陰は名の知れた方だと思います。だからこそあの吉田松陰が中村精男に大きな影響を与えていたことは非常に興味深かったです。中村精男の蔵書には吉田松陰関連の書物が複数あり、彼が吉田松陰を慕っていたことがよく分かります。実は中村精男が松下村塾に通い始める前に吉田松陰は亡くなっていて、彼らは会うことはありませんでした。ますます吉田松陰の影響力に驚かされるばかりです。また和田雄治も別の藩校ではありますが二本松学館に通っており、気象学の道に進んだ理由がつながり、納得しました。
*1
「近代気象学の先駆者・中村精男(上) ―吉田松陰と松下村塾の影響を踏まえて―」
「近代気象学の先駆者・中村精男(下) ―吉田松陰と松下村塾の影響を踏まえて―」