〜英語教育か自己学習か〜
大村 昌彦(工学部第二部 教養 講師)
はじめに
テーマは「私の授業改善」ですが、困ったことに、ここ数年、改善らしい改善をしていません。それでも、何か思いつけば、それに焦点を合わせ、引き延ばして書けるのですが、適当なことが思いつきません。そもそも、私の授業が授業と言えるかどうか、あやしい気もしています。そこで、中高生の考える戦略ですが、なぜ授業改善について書けないのか、なぜ授業らしい授業ではなくなったのか、書いてみようと思います。
英語教育と学習目標
専攻は文芸社会学ですが、大学では英語教員として、もう20年以上教えています。(英語と社会の教員免許は持っています。)教え始めた頃は、テキスト選びにとても熱心で、授業では、テキストに現れる語法や思想について、敷衍しながら、いろいろ教えていました。ときどき、背伸びして、プリントや英字新聞、CDやビデオなどの補助教材も使いました。しかし、この授業を何年続けても、学生の英語力が学習簿にある目標に届かないことは、日々、明らかでした。
英語の授業と自己学習の支援
わかりきった事実でしたが、気づいた以上、もはや、自己責任論で、お茶を濁すような授業はできません。そこで、目標の水準から逆算して、授業内容を考えてみることにしました。結論。英語は授業だけでは、できるようにならない、大量の自己学習が必要である。従って、授業の目的は、学生の自己学習を支援する以外にない。英語を教えることより、学習法を教えることに力を入れ、何を、どのように、どれだけやれば、どうなるのか、データを集め、正面から講義しました。
TOEIC受験者の増加と重なり、自己学習法の開発のため、時間も労力も、ずいぶん使ったと思います。トレーニング教材の作成、学習法ハンドブックの編集、TOEICのトレーナーの招聘などにも挑戦しました。しかし、自己学習の支援が、その形を整えて来るにつれ、課題も明らかになって来ました。学習を継続できる学生とできない学生の差です。身体技法を始め、様々な方法を試みましたが、学生の学習する身心の構えは、容易に向上しません。長い試行錯誤の末、それまでの努力と成果を捨て、授業の方針を、自己学習を支援するのではなく、一緒に自己学習を行う方向に転換することにしました。
教材主義と集団学習
テキストは、話す(書く)英語と読む(聞く)英語の2種類(2冊)に限定する。もちろん、答え、和訳、語注、CD、学習法がついていて、先生に頼らず、ひとりで学習できる教材です。先生は、コーチとして、あるいは、ファシリテイターとして、授業に参加します。和訳の確認、音読、復唱、筆写、暗唱、和訳からもとの英語へ。全員がスクラムを組んで、テキストの英語表現を、一つずつ、一緒にトレーニングして行きます。現在、授業では、運営上、先生と学生の区別はありますが、活動中、もはや、学習者以外、存在しなくなりました。全員が、テキスト(教材)をマスターすることだけに集中します。
まとめと展望
ここ数年の「私の授業改善」ですが、敢えて、まとめるとすれば、先生の教えている授業時間を、学生の学べる学習時間に還元することだったと言えるのではないかと思います。課題は、たくさんありますが、日本の大学教育では、授業内容や教授法より、学生の学習経験の質が大事だと思っています。学習経験の質を向上させるため、ワークショップなどで、ライフスキル教育と学生の英語学習を連携させること、通年30回の授業を、1日1回、1ヶ月30回の連続した授業に組み直すことなどを考えています。ご協力、お願いいたします。