※本ページに掲載されている肩書、所属は取材当時のものです。
まず、現在取り組まれている研究について教えてください。
今取り組んでいるのは、戦後の日本の航空会社が、どのように国際線を再開していったのか、という研究です。単なる航空史ではなく、そこに関わった人たちが、どんな準備をし、どんな思いで国際線に乗り出していったのかに注目しています。特に興味を持っているのは、これまであまり語られてこなかった女性や外国人の役割です。当時「スチュワーデス(CA)」」と呼ばれていた女性たちは、日本人男性パイロットより先に国際線に乗務していましたし、その教育を担当していたのは、27歳のアメリカ人女性教官でした。そうした人たちの存在を掘り起こしたいと思って、20年近く資料調査を続けています。
私は一貫して、「日本のモノ・ヒト・サービスが、文化の違いを越えて世界に広がっていく過程」に関心を持ってきました。現在の研究も、その延長線上にあります。
そうした研究テーマに至るまでには、どのような道のりがあったのでしょうか。
原点には、父の存在があります。父は海外との関わりが多い仕事をしていて、幼い頃から外国の話をよく聞いていました。3歳くらいの頃、父の知人だったドイツ人のオペラ歌手が家に遊びに来てくださったことがあるんです。いただいたドイツのチョコレートの包み紙がきれいでおいしくて、「海外には素敵な世界があるんだ」と強く印象に残りました。その後、日本の大学で英文科で学びましたが、大学1年生の時に父ががんで急逝しました。「人生はこんなにも突然終わるんだ」と強く感じ、「だったら、自分が本当にやりたいことをやろう」と思ったんです。それで、ずっと憧れていたアメリカ留学を決意しました。
ジョージタウン大学の大学院で、異文化コミュニケーションを学ばれたそうですね。
はい。ただ、憧れて行ったものの、最初はとにかくつらかったですね。英語が話せなかったわけではないのですが、最初の1年半くらいは授業でも全く発言できませんでした。周囲の学生がみんな非常に優秀に見えて、「自分の発言なんて価値がない」と思ってしまって。言葉の壁もあって論文もなかなか書けず、「どうして私はここに来てしまったんだろう」と、夜一人で泣くことがよくありました。転機になったのは、指導教官だったDeborah Tannen先生の存在です。先生はベストセラー作家でもあり、アメリカでも非常に著名な研究者でしたが、私の研究を「面白い」と評価してくださったんです。ある時、提出したレポートに“A+”と“Excellent”というコメントを書いてくださって、「もしかしたら、異文化コミュニケーションの分野なら、自分にもできることがあるのかもしれない」と初めて思えました。とはいえ、学位取得までには9年かかりました。「自分は研究者には向いていない」と思っていましたし、卒業後は大学のポストに応募することなく、ドキュメンタリー番組の制作にフリーランスとして関わっていました。
そこから現在の研究テーマにつながっていくのですね。
そうなんです。番組制作では、戦後の日米や国際関係を取材する機会がたくさんありました。その中で、生きた歴史を体験として直接伺うことに強く惹かれるようになりました。そんな時、Deborah Tannen先生から、「台湾でポスドクの募集があるけれど応募してみない?」と声をかけていただきました。調べてみたら、実は香港の大学だったんですが(笑)。1997年、香港返還の直前でした。現地の人々と歴史的転換点を体験するという、大変貴重な機会に恵まれました。
そこから香港での研究生活が始まるのですね。
香港の大学で出会った上司たちが、とても自由な考え方をする方たちで、「あなたが本当に熱量を持てることを研究しなさい」と言ってくださったんです。その頃、たまたま食事会で、「香港で最初に日本製炊飯器を売った」という方に出会いました。「これは面白い」と思い、炊飯器のグローバル化を研究テーマにしようと決めました。ところが、デンマーク人の上司に相談したら、「そんな小さなテーマは学者として自殺行為です」と言われたんです(笑)。でも、私は逆に奮起して、「じゃあ、やってみます」と答えました。香港向けにはお粥機能、イラン向けにはおこげ機能など、日本製炊飯器が各地でローカライズされていく過程を追いかけ、最終的には本にまとめました。日本の新聞などでも書評で取り上げていただきました。その後、英語版として再取材し、加筆修正した本によって、香港大学でテニュア(終身雇用権)を取得することができました。
その後、長く香港で教鞭をとられたのですね。
上司はずっと私のやりたいことを後押ししてくださり、国際交流基金の安倍フェロー選出、香港大学着任を経て、30代半ばで、研究者としてやっていこうという自覚がようやく出てきました。結局、香港では25年教えていました。そして、2019年にサバティカルで一時帰国していた時、友人宅のパーティーで東京理科大学の先生と偶然お会いしたんです。
そこで、新しく国際デザイン経営学科を立ち上げるというお話を伺い、「日本に帰って来ませんか」と声をかけていただきました。最初は、「文系の私が理科大に? 冗談では?」と、思いました。でも、お話を聞くうちに、「体験を通して学ぶ」「分野を越えて学ぶ」という学科の理念が、自分のやってきたことと重なると感じたんです。そうして、2022年に東京理科大学へ着任しました。
実際に教えてみて、理科大の学生にはどんな印象を持っていますか。
すごく優秀で活発です。「日本の学生は発言しない」とよく言われますが、そんなことはないと思います。先日、アイルランド大使館の方に講演をお願いしたのですが、講演後の45分間、学生たちが次々と英語で質問をして途切れることがありませんでした。適切な環境さえ作ることができれば、学生たちは本当に積極的に議論をするんです。そんな環境をできる限り作ってあげたい、そう思っています。
プライベートでは、どんな時間を大切にされていますか。
仏像を見るのが好きですね。特に、中国・東魏時代の仏像が好きで、敦煌莫高窟や雲崗石窟、大足石刻といった石窟や寺院を訪ねたり、博物館を訪れたりしています。
最後に、研究者を目指す学生へのメッセージをお願いします。
私は「回り道はアセット(資産)になる」と思っています。大学院で苦労したことも、ドキュメンタリー番組の裏方をしたことも、全部が今につながっています。女性のキャリアは、ときに一直線には進まないかもしれません。でも、遠回りに見える経験が、後になって必ず自分に返ってくることがあります。
それから、少し“アウェイ”な場に身を置くことも大事だと思います。居心地の悪い場所には、実はチャンスがある。私自身、ふりかえるとそうやって道が開けたように思います。若いうちは、自分の専門だけに閉じこもらず、少し分野の外に、そして日本の外にも足を踏み出してみてください。いつかそれが、自分だけの強みになるかと思います。


