リレーエッセイ

第2回 空と風と星が生まれた場所―詩人・尹東柱と東アジアの境界地帯・間島―

李海燕 (東アジア地域研究、歴史社会学)

尹東柱(ユン・ドンジュ)は、没後に刊行された遺稿詩集『空と風と星と詩』によって広く知られるようになった。詩集は、「死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥もなきことを」という清冽な言葉から始まる。終戦直前、27歳の若さで獄死したことも相まって、尹東柱はしばしば民族詩人、あるいは抵抗詩人として位置づけられてきた。しかし、彼の詩に政治的主張が前面に出ているわけではない。そこに綴られているのは、むしろ自然や人びとの日常に向けられたやさしいまなざしと、深い内省から生まれた願いや独白であり、それらは繊細でありながら平明な言葉で私たちに語りかけてくる。

詩人尹東柱の基盤は、成人するまでを過ごした間島(現在の中国・延辺朝鮮族自治州を中心とする地域)に求めることができるだろう。中国と朝鮮半島との自然地理的な境界の一部をなす図們江(Tumen River)――朝鮮語では豆満江と呼ばれ、その名称は満洲語に由来する――は、浅瀬が多く、冬季には結氷するため、人びとの往来が可能であった。清朝は「封禁」政策のもと、この地域への移住や開墾を規制していた。しかし、隣接する朝鮮北部で自然災害や凶作が続くと、生活の場を求めた朝鮮人農民が図們江を越え、耕作を行うようになった。

19世紀後半には、ロシアの南下を背景に、清朝は開墾政策へと転じた。また、この頃から朝鮮側では、この一帯を「間島」(Kando)と呼ぶようになる。1885年および1887年には、清朝と朝鮮との間で勘界交渉が行われたが、国境画定には至らなかった。まさにこの時期、尹東柱の父方の祖先も、咸鏡北道鐘城から図們江を越えて間島へ移住した。19世紀末になると、清朝を中心とする従来の東アジア秩序は大きく動揺した。日本は日清戦争、日露戦争を経て、1907年には統監府間島臨時派出所を設置し、この地域への関与を本格化させた。日本は朝鮮人の「保護」を名目に掲げたが、その背景には対ロシア国防上の理由があった。すなわち間島は、清・露・日の利害が交錯する国際政治の最前線に置かれたのである。

1909年、日本と清朝との間で「間島協約」が調印され、図們江を国境とすることが確認された。協約では、尹東柱一族をはじめ、朝鮮人開墾民が多数居住する「図們江北ノ墾地」で、その居住が引き続き認められる一方、彼らは清国地方官の管轄を受けることが定められた。翌1910年、日本は韓国を併合し、国外在住者を含む朝鮮人を「日本臣民」として扱う一方、日本国籍からの離脱を認めなかった。こうして間島朝鮮人の法的地位は、いっそう複雑なものになった。

他方、間島では朝鮮人が住民の多数を占め、自らの言語や文化を維持しようとする強い民族意識をもっていた。清朝は「辮髪易服」(清朝式の弁髪と服装に改めること)などを通じて帰化を促したが、これを受け入れた者は限られており、中華民国の成立後も帰化は広くは進まなかった。日本による朝鮮への植民地支配が強まるなか、間島では民族教育が広がっていった。その代表的な存在が明東学校であり、同校はキリスト教教育を取り入れた近代的な民族教育機関へと発展した。尹東柱の父・尹永錫も同校で学び、北京留学などを経て、のちに母校で教員を務めた。

尹東柱は1917年、この明東村に生まれ、明東小学校で初等教育を受けた。生まれた翌々年には、三・一独立運動の波が間島にも広がった。明東学校の教師や学生をはじめ、多くの朝鮮人が独立運動に加わり、間島は朝鮮独立運動の拠点としての性格を強めた。これに対して日本は、1920年に間島へ出兵し、激しい弾圧を行った。中国領内における日本の軍事力の行使は、中国側の反発を招いた。

また、奉天省(現在の遼寧省の一部)でも朝鮮人移民が増加するなか、日本側が中国に帰化した朝鮮人の名義を通じて土地を取得する事例もみられ、中国側は朝鮮人移民を日本の勢力拡大と結びつけて警戒するようになった。このように、尹東柱が明東小学校で学んだ時期には、日本による朝鮮の植民地支配と満洲への帝国主義的膨張を背景に、朝鮮人移民をめぐる日中間の対立が深刻化していた。国際連盟のリットン調査報告書でも在満朝鮮人の問題が詳しく取り上げられていた。

尹東柱が多感な中学生の時期を迎えた1932年、関東軍の強い影響下に置かれた「満洲国」の建国が宣言された。間島朝鮮人もその統治下に置かれ、一部の青年は武装抗日運動や共産主義運動に身を投じていった。尹東柱と幼少期から多くの時間をともにしたいとこの宋夢奎も、故郷を離れ、南京などで独立運動に加わった。

1938年4月、尹東柱は生まれ育った故郷を離れ、ソウルの延禧専門学校(現在の延世大学校)に入学した。その後日本留学を控えた1941年は、創作活動が最も充実した時期であった。例えば、この年に書かれた「星を数える夜」には、幼い頃の故郷の記憶が綴られ、詩人の精神的な原風景をうかがうことができる。そのなかには、佩(Pei)、鏡(Jing)、玉(Yu)といった少女たちや、貧しい隣人たちの名とともに、鳩、子犬、兎、ラバ、ノロ(鹿の一種)などが、懐かしい記憶として呼び起こされている。

戦後日本を代表する詩人・茨木のり子は、1980年代初頭から尹東柱に関心を寄せ、その詩の透明感を高く評価するとともに、若くして歴史のなかに失われた一人の朝鮮人青年の生に深い思いを寄せた。また1985年には、日本の朝鮮文学研究者・大村益夫氏らが龍井で尹東柱の墓を確認した。

韓国では、尹東柱は国民的詩人として親しまれるとともに、独立運動家としても国家的な顕彰の対象となっている。2022年には、尹東柱ら無戸籍の独立有功者について家族関係登録が作成され、韓国独立記念館の所在地が登録基準地とされた。一方、現在、生家の入口には「中国朝鮮族愛国詩人尹東柱故居」と記された標石が置かれている。こうした動向を見ていると、近代国家はつねに「境界」を欲望してきたように思える。それは領土やそこに暮らす住民だけではない。失われた歴史的時間や空間、さらにはそこに生きた人物までも、自らの内側へと取り込もうとするのである。

尹東柱は敬虔なキリスト教信仰のもとに育ち、その作品にもキリスト教的モチーフが随所にみられる。キリスト教は、間島から朝鮮(平壌・ソウル)、さらに日本(東京・京都)へと境界を越えて生きた彼を支える、精神的・文化的な基盤でもあった。こうした側面から見ても、彼の生と作品を一つの国家や民族の枠組みだけで捉えることは難しいだろう。いま私たちに求められているのは、詩人を国家や民族の物語からいったん解き放ち、より自由な視線でその言葉に向き合うことなのかもしれない。

空、風、星――広大な自然にまなざしを向け、繊細な言葉で自らの内面と静かに対話し続けた尹東柱。境界地域に生を受け、いくつもの境界を越えて生きた詩人の、生きるものへ向けられたやさしいまなざしには、人と人とを結び直す可能性が宿っている。それはまた、詩を読むことそのものに境界はないという、詩という芸術の本質にも通じるだろう。

 

(2026年晩夏)