※内容は「東京理科大学報」 vol.188 掲載時のものです。

勝負に勝つための最良の方法は、
勝つまで歩みを止めないこと。

2輪ロードレースの世界最高峰で戦う「副社長」
ホンダ・レーシング副社長、レプソル・ホンダチーム代表
1983年理工学部機械工学科卒業

中本 修平さん

ホンダ・レーシング副社長、レプソル・ホンダチーム代表
1983年理工学部機械工学科卒業
1957年、鳥取生まれ。1983年、東京理科大学理工学部機械工学科卒業。同年、本田技研工業に入社。ホンダ・レーシング(HRC)に配属される。以後17年間にわたって2輪レース部門の車体開発などに携わりプロジェクトリーダーを歴任、チームに数多くの勝利をもたらした。2000年、ホンダの第3期F1プロジェクトに参加、指揮を執る。現ホンダ・レーシング副社長兼レプソル・ホンダチーム代表。

「機械工学科の僕らの代の中で、
僕はビリに近い成績で卒業したんです」

そう語りながら、いかにも愉快そうな笑い声を響かせる。2輪ロードレース世界選手権の最高峰「MotoGP」で、現在、チームタイトルとコンストラクター(製造者)タイトルを2年連続で獲得している「レプソル・ホンダ」チーム。その代表を務めるのが中本修平さんだ。
 中本さんとバイクとの出合いは、高校時代のこと。
「高校はバイクの免許を取ることも禁止だったんですけど、あるとき仲間に乗せてもらって、すぐに夢中になりました。親や学校に内緒で免許を取り、アルバイトでお金を貯めてバイクを買ったんです。家に置くわけにはいかないから、近所の図書館の駐輪場に停めさせてもらってました」
 理科大卒業後は、本田技研工業に入社。ここでも、中本さんの型破りなエピソードが残されている。
「実習期間を終えて、配属希望を聞かれたんです。すでに僕の配属先は『4輪開発センター』と決まっていたらしいんですが、僕は『2輪のレースがやりたい。できないならホンダを辞める』と、たんかを切った。もちろん辞めるつもりはなかったんですけど(笑)」
 こうして2輪モータースポーツ専門会社ホンダ・レーシング(HRC)に配属され、以後17年間にわたって2輪レースの世界で着実に実績を積み重ねてきた。しかし2000年、中本さんは突然、4輪レースのF1行きを命じられる。いよいよ2輪の世界最高峰(当時)であるGP500を担当できると思っていた矢先のことだった。

2012年 MotoGP日本グランプリで優勝したペドロサ選手と喜び合う中本さん

 中本さんがF1での挑戦に取り組む中、2008年、リーマンショックに起因する業績悪化に伴い、ホンダはF1からの撤退を発表。その翌年、ホンダF1時代に開発されたマシンを引き継いで参戦したブラウンGPは第1戦で初出場、初優勝を遂げるなど快進撃を続け、最終的にはドライバーとコンストラクターのダブル・タイトルを獲得したのだ。何とも皮肉な結果だった。
 「ブラウンGPが優勝したとき、前年まで一緒に働いていた仲間たちを含めて2,000通以上のメールが届いたんです。『勝てたのは中本のおかげだ』ってね。でも、僕にとっては何の意味もなかった……だって勝ったのはホンダじゃないんだから」
 失意の中、08年12月にHRCに復帰した中本さんは、再び2輪の世界で勝つための組織づくりに着手。そしてレプソル・ホンダで、ついに世界の頂点を極める。度重なる困難の中、中本さんを支えてきたものは何だったのか。
 「勝負に勝つための最良の方法は、勝つまで歩みを止めないこと。長いこと仕事をしていると“自分で自分をほめてやりたい”と思える瞬間を1度や2度は経験するんです。そしてそれが、今、自分ががんばれているかどうかの指標になる。他人の目をごまかすことはできても、自分を欺くことはできないでしょ? だからがんばれるんです」